このコロナ禍、家族で過ごした日々は、かげがえのない思い出でした。
いつも忙しい夫が家に居て、子ども達と賑やかに過ごす、窮屈だけど、楽しい日々。
いつまでも続いてほしい。
そんな矢先。2020.4.30深夜3時。長男3歳6ヶ月が、高熱からてんかん重積状態となり、かかりつけ医へ救急搬送となりました。
このコロナ禍でも、すぐに医療につなげてもらえた安心感と、過去何度も窮地から脱出してきた強い息子だから、今回も大丈夫だろうと夫婦で楽観視していました。
しかし、できうる限りの処置を行なっても、息子は目覚めることはありませんでした。
1カ月の闘病の末、低酸素脳症で亡くなりました。
結婚から3年、なかなか子どもを授かることができず、待望の妊娠でした。
しかし24週の検診で、重症妊娠高血圧症を発症していることを宣告されました。
もう妊娠を継続することができない。
医師の言葉に愕然とし、小さな命を失うかもしれない恐怖に怯え、夫婦で抱きしめあったのを覚えています。
24週2日。緊急帝王切開で、全身麻酔の母から、659gで息子は産まれました。
出生2日目で、早産児に多い、脳出血を発症し、その他合併症を患った彼は、入院、手術を繰り返す日々でした。
いわゆる脳死となった頃、いつもはクールな主治医が沈痛な面持ちで、今後について話をしてくれました。
子どもは生命力が強いから、どのくらい保つか分からないけれどーーー。
延命治療、臓器提供、看取り。
私たち家族は、慣れた小児科病棟へ転棟し、残された時間を親子3人で過ごすことにしました。
少しでも身体を動かすと不安定になる息子に、特別何かしてやれたわけではありませんでした。
ただ、アドバイスを受け、思い出作りに、手形足形を取ったり、写真を撮ったりしました。
いつも息子の隣で眠っていた夫は、久しぶりに一緒に眠れるだけで幸せだよ。
と嬉しそうでした。
息子もきっと、そうだろうな。
通園した療育施設の先生たちや、息子ゆかりの医療者たちが、変わるがわる面会に来てくださいました。
その中に2人の助産師さんがいました。
NICUで担当となり、息子をとても可愛がってくださったAさん、息子の大変な出産の時に担当となり、その後2回の出産にも関わってくださったBさんでした。
おかあさん、眠れてますか?
おとうさん、ごはん、食べれてますか?
普段と変わらない体で、息子と私たち夫婦の心配をしてくれました。
会わないうちに、こんなことがあった。息子はあんなことができるようになった。
あんなに小さかったのに。すごいね。
訪室した人に見てもらえるよう、壁一面に貼った、生まれてからこれまでの息子の写真を眺めながら、取り留めなく話をしました。
二人とも、息子が入院すると、必ず顔を見に訪室してくださいました。もう、遠い親戚のおばちゃん(の気分)だからね。と言って、長い付き添い入院で母子共に滅入る私たちを励ましてくださいました。
院内にまだ感染者はいなかったけれど、緊張の中わざわざ時間を割いて来てくださったこと、見知った顔に会えたことが、どれだけ心の支えになったでしょう。
ひとしきり話し終わると、
じゃあ、また明日来ますね。また、会おうね。
そんなやりとりをして8日目、息子の時が止まりました。
葬儀やらでバタバタと時間が過ぎ、四十九日の頃、そのお二人から個人的にお供えが届きました。
息子が大好きだったプリン、息子の名前を刺繍したハンカチと手紙が添えられていました。
ーーどうしているかとても気になっている。お線香をあげに行きたいが、コロナも収束しそうにない。入院中、居てもたってもいられず、祈るような気持ちで少しずつ刺していた。息子が亡くなった日に完成したーーー
Bさんの手紙にそのようなことが綴られていました。いち患者のその家族と医療者の個人的なこのようなやりとりは、聞く人がきけば好ましくないかもしれない。
それでも、このとき私は、息子のことを忘れないでいてくれたことが、お二人との絆が、とても嬉しかったのです。
私がいま最も辛い、恐れていることは、息子のことを忘れられることです。
ずっとずっと、忘れないよ。
そう声をかけてもらえるのが、何よりも希望になります。
このお二人とのエピソードに焦点を当てましたが、他にもたくさんの医療者とのあたたかい交流がありました。
息子はたくさんの医療に支えられて生きてきました。
日本の医療システムに感謝するとともに、医療者の皆さまには、これからも、私たちのような家族の支えになってくださいますことを願うばかりです。
コロナが早く収束しますように。