当事者部門

「私たちの絆」 せなりーた

(注)応募時に無題だった作品は、作文コンテストのテーマである「私たちの絆」をタイトルとしています

私は去年の12月に重度障害のある医療的ケア児だった長女を亡くしました。6歳1ヶ月でした。
未熟児で産まれて、色々な合併症を乗り越え、2年8ヶ月の入院生活を経て、やっとお家で過ごせるようになりました。

産まれてすぐの頃に壊死性腸炎になった影響で、短腸症候群となりました。娘の場合は腸がほとんど残っていなかったので、腸で栄養を吸収することができず、栄養はほぼ点滴から取っていました。
それはお家に帰ってからも変わらず、24時間点滴と共に過ごしていました。

1日2種類の輸液パックを、12時間ごとに交換していました。さらに週に3回、日本ではまだ未承認のオメガベンという薬も海外から個人輸入して、12時間かけて投与していました。

それでも、私たち家族にとっては、ただただ可愛い赤ちゃんでしたので、在宅ケアの不安より、一緒にお家に帰れる喜びの方が大きかったです。

しかし退院と同時に襲ってきた社会との関わり。
退院時のリハビリの先生にはしきりに、早く障害者手帳を取りなさいと言われ、担当医の先生には療育センターに通ってみたら?と言われました。

社会から見たら、この子は障害児なんだ。と自分も認めて、我が子の成長を諦めてしまうようで、気が進みませんでした。

たまたま小児科外来の看護師さんが、もともとそこの療育センターから移動してきた方で、「どうせ電話しても半年待ちだから!とりあえず電話してみたらいいわよー!」という気さくな明るい方だったので、電話をしてみると、その時点ですでに3歳近くになっているということで、娘の場合すぐにリハビリに行けることになりました。

そこからはトントン拍子で、リハビリの担当になってくださった先生から、「うん。グループレッスンに行こう。」と、翌月から2週間に1回のクラスに入れてもらえ、そのまま、翌年には、その療育センター内にある、医療型児童発達支援センターへ通わせてもらえることになりました。

そこは肢体不自由児や医療ケア児が通う幼稚園のような施設で、年少さんは週に3回のみで、親子通園、年中さんから週に5回で、分離が始まります。
また、子供の給食が終わると、親たちだけのランチタイムがあり、親への給食はないので、いつもお昼を持参して行っていました。

通園前のオリエンテーションを聞きながら、ランチタイム、他のお母さんたちと気まずかったらどうしよう、お昼持って行くなんて面倒くさいなぁ。そもそも、この子退院して1年も経ってないのに、週に3回も集団生活出来るはずないよなぁ…。そんなことを考えていました。

実際に通ってみてビックリです。娘の体調はとても良く、数ヶ月間、皆勤賞でした。
園では、先生に褒められたくて、興味関心を引きたくて、たくさん声を出してみたり、お友達にはライバル心を燃やしたかと思えば、手を伸ばして触ろうとしてみたり。

いままで見たことのないような姿をたくさん見せてくれました。なにより、全く笑わなかった娘の、笑顔がものすごく増えたのが1番嬉しかったです。

私にとっても、大きな変化がありました。他のママとの交流です。
色んな病気を持つ、色んなママがいて(パパもいました!)、その情報全てが新鮮で聞いたことないことばかり!!リハビリ病院から、近所のバリアフリーのお出掛け情報、小学校のこと、障害者手帳の活用法まで。ありとあらゆることを教えてくれました。

ネットが便利になった世の中ですが、そこでは、検索しても出てこない、リアルな声が聞けました。憂鬱だと思い込んでいた親のランチタイムは楽しい時間に変わりました。

仲間がいるというだけで、心強くなれました。娘と2人で電車にもバスにもたくさん乗りました。新幹線や飛行機にも乗りました。諦めていた海外旅行も、人工呼吸器を付けたお友達がハワイに行った話を聞いて、ワクワクして、パスポートまで取得しました!

6年間、娘とのたくさんの楽しい思い出を作れたのは、通園してたくさんの人に出会えたからだと思っています。
園の先生たちは娘のことを本当によく理解してくれて、医療ケアに関してももちろんですが、少しの発達や表情の変化にも気が付いて教えてくれました。
お友達はいるだけで娘をご機嫌にしてくれました。ママ友は私を強く、ポジティブにしてくれました。

娘のお葬式には会場に入りきらないくらいのお友達が来てくれました。先生や園のお友達はもちろん、卒業生や転園したお友達、移動した先生や音楽療法の先生まで…本当にたくさんの人に囲まれて、みんなに注目されるのが大好きな子でしたので、娘は喜んでくれたと思います。

大好きな先生がいて、お友達がいて、朝の会や給食の時間、ママと離れて遊ぶ時間があって…そこが娘にとっての社会だったんだなぁと思います。
園という小さな社会の中で、娘はとても輝いてましたし、私も安心してのびのび過ごせていました。

娘を亡くしたいま、街を歩いていると、ふと、「あぁ、いま私たちは普通の幸せな家族に見えているのかな。誰も私たちが長女を亡くしたなんて知らないんだな。」と悲しくなるときがあります。

それが同時に、私が娘を連れていた時に他人に対して思っていたことなのだろうと気が付きました。
「あの人たちは何の苦労もなく生きてるんだろう」「どうせ、医療ケア児のことなんて知らないんだろう。」そんな風に自分から社会をシャットアウトしてしまっていたのかもしれないです。

社会が人に与える影響はとても大きいと思い知りました。
もっと医療的ケア児のことが当たり前のように知られている世の中だったら、健常児も医療的ケア児も隔てなく交流出来る環境があったら、私も一般社会を園のように身近に感じられたのではないかなと。

そうすれば、普段のお出掛けも旅行ももっと気軽に、もっともっと遠くへ行けたんじゃないか、色んなことにチャレンジできたんじゃないかと思うと悔しい気持ちでいっぱいになります。

娘は行けませんでしたが、海外旅行もどんどん行って、色んな国の医療的ケア児同士の国際交流なんて出来る時代が来たらいいなぁと、最近は夢をふくらませています。

医療的ケア児に限らず、さまざまなことへの理解が広まって、どんな人にも優しい温かい世の中になるように、社会の一員として何が出来るのか、これからも考えていこうと思います。

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