当事者部門

「障がい児だった私と祖母」 mama蓮

私の一番古い記憶は、真っ赤な補助具の靴を履いてのお出かけだった。

36年前に誕生した私は先天性内反足という足の病気を持って生まれた。当時19歳だった母は、未婚で妊婦検診にも必要回数行っておらず、誕生まで障がいについて誰にも分からなかったとのちに聞いた。まだ若かった母は、私の障がいよりも自分の楽しさに目が行き、私は祖母に育てられる事となった。祖母にとっても突然の事ではあったが、とても大切に育ててもらった記憶しかない。

「この子は車椅子の生活になるかもしれない」と告げられた生後すぐからギプスを装着しての治療。退院後も病院通いの毎日。持病がありながらも献身的に治療に取り組んでくれた祖母。祖母のお陰もあり、生後7ヶ月で手術を行える様になった。その後も、ギプス交換で病院へ固定具を作りに病院へ補助具の靴を作りに病院へ。1年半後に産まれた妹も重度の小児喘息の中、いつも二人の病院を駆け回っていた。

そして、私は幼児になり立って歩けるまでに成長出来た。毎日毎日足のマッサージ・リハビリをしてくれたおかげだと思う。そして、私と祖母に新たな目標が出来た。普通学級に通う事。障がいの治療だけでなく、両親がいない事や障がいがある事をカバー出来るようにと学習にも力を入れてくれて幼児教育の先生を自宅に呼んでくれた。幼稚園に通い出すと、自分と他の子の違いに改めて気づき泣いて祖母を責めた日もあった。そんな中でも必死に考えてくれていた祖母。小学校入学前も学校にかけあってくれていた事をその時の私は知らなかった。

祖母との目標通りに小学生は普通学級に通う事になったが、長い距離を歩けない私は毎日車で送り迎えをして貰わなければならなかった。体育の授業は見学が多かったが、運動会には参加させてもらった。初めてのマラソン大会、医師からも祖母からも止められていて担任の先生にも通達済みだったのだか、負けず嫌いに育った私は皆の目を盗み他の生徒に紛れコッソリ出場した。結果は、10位以内に入って誰もが驚いていた。しかし、走り終わった私は立っていられないほどの激痛に襲われ、すぐに病院に行く事となってしまった。

予想通り、医師からも祖母からもとても怒られた。当時の私は皆に「やれば出来るし結果を残せる。病気がさせてくれないだけ。」なのだという事を示したかったのかもしれない。痛みと悔しさから泣きじゃくる私を祖母は優しく抱きしめて「良く頑張ったね。すごかったね。」と褒めてくれて、とても誇らしかった。それからは、無茶をするのをやめて、学生生活を過ごし、大人へとなっていった。

大人になった今でも、まだまだ無理は出来ないし、年々痛みが増しているのでそろそろ関節の固定術が必要な年齢になってきたが、13年前に私も母となり子育ての大変さ、どんなに治療に体力と神経を使った事かわかる様になった。今でも感謝しても感謝してもしきれない。娘も大きくなり、これからやっと親孝行・恩返しが出来ると思っている。

しかし、そんな時、世界中での新型コロナウイルスの感染拡大。現在、体の不自由と認知症を発症してしまいグループホームに入所している祖母。感染予防の為、面会禁止となってしまい半年以上会えずにいた。耳も遠くなってしまったせいか、電話で話すことも出来ない。やっと恩返し出来ると思ったのにと悔やむ毎日が続く中、アンリーシュ様のLIVE配信である方のお話を聞けて私の考えは変わりつつある。

「同じ事柄でも、見え方を変えれば素敵に考えられる事。」

今は、祖母には会いづらい時だけど、感謝の気持ちは会わなければ伝えられない物じゃない。今出来る精一杯のありがとうと大好きを違う形で送ればいい。そして、また会えた時は、めいっぱい親孝行しよう。感謝を伝えよう。会えない期間があるからこそ、この気持ちを深い強い物にしてくれた事・より気づかせてくれた今の状況に感謝しよう。

最後に、この場にはなってしまいますが、私の障がいと向き合ってくれた祖母・この様な気持ちを思い出させてくれたアンリーシュ金澤様・アンリーシュ視聴者様に心から感謝申し上げます。

そして、皆様の様に温かな人柄になれるよう私も歩き続けます。

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