ある日突然、救急車で運ばれました。
入院後両親は病院の先生から『話があります』と呼ばれました。
『明日香ちゃんは身体の50%を火傷しています。そして喉にも火傷を追って呼吸状態が悪いから呼吸器をつけて集中治療室で様子を見ますね、そして将来歩くことも座ることも声を出すことも日常生活を1人で送ることも全部出来ないだろう』と言われました。
でもお父さんは明日香はきっと、歩くことも座ることも声を出すことも一人で日常生活も全部できるようになると信じてくれました。
奇跡的に命は助かり、50日目でやっと一般病棟に移りました。 偶然にも同じ病院に祖母が入院していたので、私の面会をしてくれました。
しばらくして体の訓練が始まりました。 体幹装具と足の装具を24時間付けるようになりました。入院して半年後両親は主治医の先生に 『話があります』と呼ばれました。
『明日香ちゃんは体調安定して来たけど、自宅での火傷の傷の手当ては難しいです』と言われました。そこで、医療型施設を紹介してもらい、両親は退院後医療型施設に入所する事を決めました。
一歳半から親元を離れて施設の生活が始まりました。また夜は寂しくて泣くのでスタッフさんに抱っこしてもらっていました。二歳になってから自分で座るようになりました。
その後ハイハイやつかまり立ちができるようになってきました。お父さんが車のおもちゃを買ってきてくれたのでリハの先生と歩く練習を始めると、びっこしながら少しずつ歩けるようになりました。
二歳の十二月に地域の保育園に交流保育でスタッフさんと一緒に週一回通い始めました。スタッフさんのお子さんが保育園にいて、その子が周りの友達を呼んできてくれて、保育園に行くたび遊んでくれました。
そこでお父さんが病院の先生に相談してくれました。『右足の装具で皮膚の状態が悪くなっています。どうしたらいいでしょう?』
そしたら主治医の先生は『今年は三か所皮膚移植をして治そうね』と言われました。7月にかけて右足からお尻にかけてと、9月に右肘、10月に右足の皮膚移植をしました。手術後は毎日のガーゼ交換やリハビリを頑張りました。
三歳になって自分の洋服を着替える練習を始めました。最初は手と口を使いながら少しずつでいるようになりました。
私は手の指が上手く使えなかったの靴のマジックテープを口で剥がしながら『口でするなんて汚い、私は何でこんなになったの!』と言って泣いていました。
辛い事もたくさんあったけど施設のお医者さんの子供さんとお友達になり一緒に遊ぶようになり楽しい事もありました。先生から『手の甲の手術をして四歳になったら両手の指を離す手術と足の指を離す手術をしようね』と病院の主治医の先生に言われました。
手術のために入院中は同じ火傷のお姉ちゃんと同じ病室で遊ぶようになりました。私が泣いているとお姉ちゃんのお母さんが慰めてくれました。
両手の指を離す手術をしてからは口を使わずに自分で洋服を着る練習や食事を自分で食べる練習を頑張りました。お昼はおむつが外せるようになりました。指が少しずつ使えるようになって友達とおままごとをして遊ぶ事もできるようになりました。
五歳になり、ひらがなとカタカナを書く練習とハサミで紙を切る練習を始めました。それから病院で火傷のお姉ちゃんに手術のたびに会うようになりました。
お姉ちゃんが『また会ったね』とお互いに励まし合いお姉ちゃんと一緒にご飯を食べたりしたことが楽しかったです。
小学校に入学する前に主治医の先生から首の皮膚移植をする説明が両親にありました。 首を後ろにそらすと皮膚が張ってそらせなかった首の皮膚移植をしました。
皮膚移植をした事で歯磨きやうがいができやすくなりました。友達に『あーちゃん指短いけどハサミを器用に使ってすごいね』と褒められたのが嬉しかったです。
小学生に入ると算数やカタカナ、ひらがなを習い始めました。鏡文字がなかなか直らず苦労しました。2年生の夏休み前に受診に行きました。主治医の先生からは右肘の皮膚が張って伸びなかったので入院して手術をしました。
同じ病室でお姉ちゃんに一年ぶりに再会しました。 夏休みの宿題を教えてくれました。とってもわかりやすくて頼りになりました。
退院後は右肘の移植手術をした事で以前より髪の毛を結びやすくなりました。 3年生になって学校の担任の先生が地域の小学校に連れて行って同級生小学校の図書室で好きな本何冊も読んでみました。
同級生と本について共通の話題を話すのが楽しみでした。 夏休み前に両親と受信に行きました。
四年生になりました。夏休みに両親と受診に行ったときに主治医の先生から『夏休みに手首、肘、脇、首の四か所を手術しようね』と言われました。入院して手首、肘、脇、首の皮膚移植をしました。
退院後、左手首皮膚移植をした事でピアノが弾きやすくなりました。右脇の皮膚移植をしたことで洋服が着替えやすくなりました。右肘の皮膚移植 をした事で髪の毛が洗いやすくなりました。首の皮膚移植をした事で歯磨きの時にもっとうがいがしやすくなりました。
春休み明けに学校に行ったら、担任の先生が変わっていてびっくりしました。担任の先生から私にポエムを教えてもらいました。大根収穫っていうポエムを書きました。それを新聞社のポエム募集に書いたポエムを応募してみました。その時にポエムが入選しました。学校のお友達や先生に褒められて嬉しかったです。
私は施設の敷地内にある養護学校の小学部を卒業しました。敷地内にある中学部に入学しました。中学部の分教室の担任の先生がパソコンで絵を描くことを教えてくれました。
本校の同級生と交換ノートを始める事にしました。なかなか会う機会ができないけど交換ノートで毎日会っているかのような感覚で本校の同級生と会話していました。学校では同級生と帰る前テレビ電話で話せるようになりました。目の前に居るようで楽しい時間でした。
中学2年生になりました。担任の先生が変わってなくて安心しました。 夏休み前に課外授業の話がありました。
中学3年生になりました。中学3年生のある日突然お父さんは家族を集めました。『お父さんは血液のガンの病気なんです』と家族に話がありました。当時の私は中学3年だったのでお父さんの病気を受け入れきれませんでした。高校の合格発表の時にお父さんが具合悪かったけど高校の入学式に来てくれていました。
高校一年の春、担任の先生たちと『勉強します』と言われました。それとデジタル写真展に出すお花を撮り、それをハートで囲むのをパソコンで作って出しました。
夏休みに入りました。お父さんの病気が悪くなり、お父さんは8月に天国へ旅立ちました。十二月に作品展の作品が返って来ました。銀賞を受賞しました。皆んなに『凄いね』と褒められました。
高校二年生の春休み前に、定期受診に行きました。その時に主治医の先生に背中の皮膚が張って痛い事を相談しました。そして足にできものができているから、『それを一緒に手術して治さないとね』と言われ、久しぶりに入院しました。
背中の皮膚移植をした事で姿勢が良くなりました。足のできものを取ってから皮膚移植をしました。いつものお姉ちゃんは居なかったので主治医の先生が同じくらいの女の子を紹介してもらいました。徐々に仲良くなりました。お互いにベットから動けなかったからメールでやりとりしました。
高校三年生の新学期は入院していたので友達より一ヶ月遅い新学期が始まりました。その時担任の先生が変わっていたのでびっくりしました。あるポエムのコンクールに応募しませんかと担任の先生から聞かされました。私はあるポエムのコンクールに『応募します』と伝えました。
先生と一緒にポエムを描いて、応募しました。私に校長先生が声をかけてくれました。『明日香さんこの間あるポエムコンクールに応募したポエムはとっても良い文章が書けたね、凄いね』と褒められました『もしかしたらこの間のポエムは入選するかもしれませんね』と言われました。
二学期の十二月に入りました。私と担任の先生はインターネットであるポエムコンクールの結果を見ました。その時はまだポエムが入選するとは思っても居ませんでした。
担任の先生が『テレビの取材があるよ』と聞かされた時は驚きました。そのあと友達や先生に褒められてとっても嬉しかったのを今でも覚えてます。最初は緊張したけど徐々に取材に慣れて来ました。今ではいい思い出です。
高校卒業後病院に定期受診で行きました。左足が座ってる時に皮膚が張って痛かったので主治医の先生に相談すると『背中の皮膚と足に皮膚が繋がってるから背中に皮膚移植したら痛みは良くなると思うよ』と主治医の先生に言われました。
その後一年振りに入院して皮膚移植手術をしました。同じ部屋の患者さんたちと仲良くなってお話しするようになりました。
退院後お母さんが手術を頑張ったご褒美に振袖屋さんに振袖を見に行きました。私はピンクと黄色のグラデーションの振袖を借りることにしました。お母さんが親戚を集めて二十歳のお祝いを実家でしてくれました。
それから一ヶ月後に施設で成人式をしてもらいました。その時お父さんは亡くなっていなかったけど、きっと私のそばにいてくれたんだと思います。
高校卒業してから今の私には夢があります。大学で保育士の勉強がしたいです。それは私にとってそんな簡単な事ではないけど、夢が叶った時私はきっと喜ぶ事でしょう。
私が火傷で障害者にならなかったら病院の主治医の先生や、看護師さん、施設の職員さんや支援学校の先生たちや友達に出会えてなかったと思います。ここまで支えてくれた施設の方、学校の先生や友達の皆さんありがとうございます。
これから夢に向かって頑張っていきます。なのでこれからもよろしくお願いします