(注)応募時に無題だった作品は、作文コンテストのテーマである「私たちの絆」をタイトルとしています
新型コロナウィルスの患者数が増えだした今年の2月から3月ごろ、ウィルスによる症状も、社会のあり様も、それらの先々が全く分からないことの多さに、ものすごく強い不安を覚えた。皆がその強い不安から自分の考えを相手に強要しようとし、自粛警察なる言葉も出て来るくらいの重苦しい空気の中、ついに4月7日の緊急事態宣言。
そこから、必要最低限の外出以外を控える日々。医療的ケア児がいる我が家ではなかなか気分転換が図れず、きつかったのが正直な所。「絶対にこんな未知のウィルスで娘を死なせたくない!」と肩に力が入ってしまい、疲れ果てていった。
でもよく考えてみると娘が産まれてから今までと、とても似ているプロセスを踏んでいることに気付いた。病名と障害を告知されて、先々が全く分からない中で、経験を積んで、視点や意識を変えて何とかやってきた今までと。
娘の恵美菜は、2015年の7月に1682gの早産で産まれた。産まれてすぐに口蓋裂、合肢症、耳が少し下にあるなどのいくつかの特徴が重なったため、染色体検査をすることとなった。この子はもしかしたら何か障害があるかもしれない、だから名前は『圧倒的な生命力』という画数で『恵美菜』にした。でもまだこの頃は、「言ってもきっと普通の健常児でしょ?」とどこか楽観的でもあった。
でも結果は、2番染色体の一部欠損。世界に50例ほどしか症例がなく、先々の予見がなかなか出来ないとのこと、ただ重度の発達障害になる可能性が高い、また難治性てんかんを発症する可能性もあるとのことだった。
恵美菜は本当にゆっくりとしか大きくならず、ミルクも口から全量飲めず、経鼻経管栄養で退院した。慣れない鼻からの注入、体調によってスピードを変えないと吐くなんてことも、退院して経験する中で初めて知った。夜中にも注入があって寝不足な毎日。重症心身障害児は身体が弱いということすら、育てるまで知らなかった。
そして生後8カ月、てんかんを発症。1歳8カ月には、大きな痙攣発作を起こして搬送され、人工呼吸器を挿管されるまでになった。その後、抜管してもなかなか元の恵美菜に戻らないことから、もう一つの病名「ドラベ症候群」を告知された。これは日本に3000件くらいの症例しかない難治性てんかんで、発熱すると脳波が大変不安定になり、重積しやすく、重積すると成長が退行するリスク、また19%は突然死するというものだった。
「一生懸命産まれて来て、ここまで生きてきた我が子を突然亡くす可能性があるなんて」とどん底に突き落とされた気持ちで涙が止まらなかった。だから一生懸命、家族で一丸となって恵美菜のペースに合わせて規則正しい生活をし、人込みや遠出を避けて体調管理に努めた。
そうやって恵美菜を守りたい気持ちも本当だったが、「自分の人生はこれからどうなるのだろう?ずっと、看護と育児だけで終わるのかな、自分の今まで培ってきたキャリアは?」という気持ちも本当で、その両方の気持ちに板挟みになっていた。
でもそれも、同じ医療的ケア児、重心児を持つ方々と友達になり、世界が広がり、昨年は地元の市を巻き込んで、こうしたお子さん達のドキュメンタリー映画の上映会も自分が主催出来、『恵美菜を授かったことで、新たに出来ている人や社会との繋がり』を実感出来て、自分の中にあった焦燥感も乗り越えていった。
本当に一つ一つ不安と分からないことにぶつかっては、いろいろな方の助けと経験則で、大変なこと、最悪なことを、嬉しいこと、喜びに変えてこれたんだと思う。
このコロナ禍も、4月の緊急事態宣言の頃よりは、ウィルス自体がどのようなものか解明され始めてきた。今年で5歳になった恵美菜と療育保育園に母子通園する日常も戻ってきている。そして社会全体も、家族や地域の人々と過ごす、スローペースな雰囲気になってきている。また未知のウィルスを前にどうすることも出来ない不自由さを皆で共有したことによって、誤解を恐れずに言えば、『皆が社会的弱者とはどのようなものか』を経験出来たのでは思う。
そんな社会的パラダイムシフトのおかげで、私たち医療的ケア児家族の日常的な過ごし方が今のトレンドになってきており、今までよりも過ごしやすくなってきている。そうやって
このコロナ禍でも、視点や意識は変わって、何とかやれるのだ。
今後新型コロナウィルスがまだどのように収束していくかわからない。収束してもこれから別のもっと強力なウィルスが出てくるかも分からない。恵美菜の病気だってこれからどのようになるかわからない。でも共通するのは、大切な人たちと一日一日を後悔のないように大事に過ごすことだ。それはいついかなる時だって変わらない。
この新型コロナウィルスは、そんなシンプルに大事なことを再認識させてくれた。