当事者部門

「私たちの絆」 民谷 直紀

(注)応募時に無題だった作品は、作文コンテストのテーマである「私たちの絆」をタイトルとしています

強迫性障害を患っております。
心療内科などに通いはじめたのは27歳の頃からです。

症状自体は小学生の低学年頃からありました。
普段から両親は喧嘩をすることが多く喧嘩をするたび自分を責めていたのを今でも覚えております。

初期の頃の症状は自傷行為的な部分からはじまっていきました。何度も喉に指を突っ込んで嗚咽を何度も繰り返していました。両親が喧嘩をするのは自分のせいだ。自分を傷つければ両親の喧嘩は収まるんだという気持ちがありました。

それをきっかけに強迫性障害の症状で強迫観念や加害恐怖、確認行為の症状が顕著に現れるようになりました。自分の気持ちとは裏腹に頭に湧いてくる指示に従わないずっと強迫観念から解放されないのです。

小学生の頃で1番辛かった症状があらゆる物や地面などを舐めるということです。健常者の方にはとても理解できるような行動ではなかったと思います。

次に加害恐怖の症状がありました。当時オウム真理教のニュースが頻繁にテレビで流れておりそのニュースを見て自分も誰かを殺してしまうのではないか?家族や友達を殺してしまうのではないか?そのような不安が四六時中頭の中を駆け巡っていました。

そして確認行為です。何度も何度も同じ行為を繰り返してしまうのです。服を何度も着たり脱いだり、入浴の時も何度も身体を洗ったりなどを繰り返していました。就寝している時だけが休まる時間でした。

小学生の頃は特に朝が来るのが本当に苦痛でした。目覚めた瞬間からまた強迫観念がはじまり悪夢の1日がはじまるという日々でした。
私は小学5年生の頃に母親に相談したことがありました。子どもながら自分の身体の不調を頑張って伝えたつもりでした。
自分の身体がなんかおかしいから病院に連れてってというニュアンスで伝えたのですが理解してもらえずその話は流れてしまいました。

それから就職して半年経つまで両親とは全く口を聞かなくなりました。

まず最初の分岐点として私は中学校を卒業して高校には進学せず就職の道を選びました。
実家から離れて1人暮らしをはじめました。

私が最初に就いた職はばんえい競馬での厩務員としての仕事でした。仕事をする中で症状が顕著な現れ仕事の妨げになっていました。

ですが働きはじめての4年間で症状との付き合い方が少しずつうまくできるようになっていきました。
仕事先の社長や奥さんがとても優しく色々と支えていただきました。
この社長さんファミリーとの出会いはとてもその後人生に多大な影響を与えてくれました。私はこの頃から子供と携わる仕事に就きたいと思うようになりました。

退職後心療内科に数ヶ月通いましたが病名が分からず途中で通院をやめて定時制高校に入学しました。
この頃もずっともやもやな状態が続いていましたが気にせずに過ごしていました。
高校に在学していた頃は保育士資格を取得したいと考え卒業後は進学を考えていたのですが色々な事情で断念をしました。

卒業後は介護の道に進みグループホームや特別養護老人ホームて働いたのですがやはり体調のバランスを保つことができず退職しました。

27歳の頃にインターネットで自分の症状と当てはまる病名を探しました。
それが強迫性障害でした。
母親も長年精神疾患を患っているので症状の話をしたところ理解を示してくれました。今では1番の理解者でお互いの悩みなどを共有しあえる関係でいます。

職を離れてから将来のことを考えやはり子ども携わる仕事に就きたいと思い放課後デイサービスや児童発達支援センター、子育てサロンなどでのボランティア活動に専念してきました。

今後の目標としてまず短期間で達成したいのはアルバイトやパートなどで保育補助として働かせて頂き子ども達と携わる仕事がしたいです。
そして将来保育士資格を取得して幅広く働いていきたいです。

去年アンリーシュのYouTubeチャンネルを見つけて医療的ケア児という言葉をはじめて知りました。
当事者の医療的ケアをする様子をはじめて拝見させて頂き我が子のために身を粉にして頑張っていらっしゃる金澤裕香さんの姿を見て涙が出ました。

今回アンリーシュの作品コンクールで医療的ケア児の存在やあまり社会に知られていない障害などに少しでもスポットライトがあてられて少しでも理解されることを願っております。

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