私は重度知的障がいで自閉症のある障がい児の親だ。そして、もう一人同じ歳の健常のきょうだい児の親でもある、双子の親だ。
双子の兄に障がいがあることが分かった時、不思議と驚きはなかった。うっすらと感じていたんだと思う。両親揃って病院で、医師から子どもの障がいを診断された時、夫はショックを受けていたが、私は逆だった。希望を持ち始めていた。障がいという未知の世界で、この子と共に生きていこう、学んでいこうと決意が芽生えた。
未就学児の頃から療育に通い始め、沢山の出会いがあった。まるで知らなかった障がいのある子ども達の世界。
ダウン症の子ども、肢体不自由な子ども、脳性麻痺の子ども、いろいろな障がいの子ども達と一緒に療育を受けていく中で、同じ仲間がいることに勇気づけられた。
自閉症の特性から目を合わせなかったり、感覚過敏から触られるのを嫌がったり、こだわりからの偏食、睡眠障害、そしてこの頃から多動が大変になっていった。
自閉症児はあまり笑わないと言われながらも、息子はよく笑顔を見せてくれた。それが救いだった。その笑う顔が見たくて、双子を連れて公園へ遊びに行き、少しでも夜の睡眠が安定するよう、日中から夜まで外へ連れ出し運動させる毎日だった。
小学生になり、特別支援学校に通うようになっても多動は変わらず、ますます酷くなった。
障がいのある我が子はとても愛おしい。
けれど、多動で家からの脱走が増えて一秒も気が休まない、睡眠障害で家族も徹夜で交代し起きる。
障がい児育児と双子育児が重なり、私の身体と心も悲鳴を上げ続けていた。私も精神科に通う中、きょうだい児の我慢してる気持ちに気づいた。双子の弟にも心の問題が起きていた。家族の体が、心が壊れる限界だった。
助けを求めて、やっと辿り着けたのが施設入所という支援の形だった。
家族が夜眠れて、トイレに入っている時も脱走する物音にずっと耳を澄まさず済む、ゆっくりご飯を食べられ、普通の生活ができるようになった。
きょうだい児の笑顔が戻った。
子ども達を愛してる。だけど、私一人でずっと介護と育児をしてたら、どうなっていただろう。つぶれていたに違いない。
そして起きた、コロナウィルスによる影響。学校が休校となり、入所施設からの面会、一時帰宅が中止になった。
その時思い浮かんだのは、双子の兄の笑顔だった。あなたはずっと、私に希望与えてくれていた。どんなに大変な時も、あなたの無邪気な笑顔に救われていた。
あなたの教えてくれた世界。そこでは私は沢山の支援者につながることができた。あなたはずっと私を助けてくれていたんだね。そして、双子のきょうだいをも。
介護に追われていた私、叫び声をあげていた双子の弟、悲鳴を上げていた私たち家族と、離れてあなたは今、安全な環境、安心で信頼できる支援者達の愛情に包まれて、一人で頑張っている。
休校中、きょうだい児と一対一で過ごした時間は、双子の弟の今まで我慢していた感情が爆発し、癇癪を起こしたり、ずっと親に甘えたかった気持ちがあふれ出していて、一緒に寄り添う、とても大切な時間だった。
緊急事態宣言が解かれ、施設から一時帰宅が許可されると、またあなたを抱きしめる幸せを、元気に笑う姿に喜びを感じることができた。家族皆がこの時を待っていた。
知的障がいや自閉症は、目に見えない障がいと言われ、見た目に分かりにくく、当事者家族の大変さが理解されにくい。
コロナウィルスの影響で外出制限があったとしても、睡眠障害で夜寝ない、多動で家にじっとしていられない為、マスクをして外へ行き、運動する事が欠かせない。
多動で脱走してしまうので外では手を離せない。家でも目は離せず、夜寝ている時も24時間ずっと家族の緊張は続く。
以前、ある療育施設に子どもを送った時、支援員にこう言われた。「お母さん、お茶でもして来てくださいね」
その一言にどんなに救われたか。障がい児を育てる家族に必要なことは、子どもを預けるというレスパイト支援だと思う。
重度知的障がいがあると、コミュニケーションも難しい。きょうだい児の弟が言った。
「どうして◯◯くん(兄)は、しゃべれないんだろうね。」
「ほんにゃくこんにゃくがあればいいのにね。」
本当は一緒に遊びたい。ずっと側で誰よりも思っていた弟。双子で生まれた時から一緒にいても、兄は振り向いてくれない。言葉が話せない。さびしいよね。
私たち家族が再生することができたのは、双子の兄を通じ、療育関係者、主治医、保育園や学校の先生、放課後等デイサービス関係者や学童支援員、福祉支援員など沢山のつながりのバトンが共有されてきたからだ。支援の力を借りた時、私は初めて泣くことができた。人間らしい感情を取り戻せた。
双子の兄が入所し、気付けた。
全部あなたが教えてくれたんだね。あなたの笑顔は周りを幸せにする。あなたが笑うと私も、きょうだいも家族もみんなうれしい。ありがとう。